論説・講演など    世界に蔓延する「財政緊縮」と

世界に蔓延する「財政緊縮」というウィルス

(本稿はカレル・ヴァン・ウォルフレンの英語版ウェブサイトwww.karelvanwolferen.comに掲載された文章を和訳したものである) 

 

以前、この欄でも記したことだが(メモ書き24)、「思想の自由市場」という概念はナンセンスである。なぜなら思想は取り引きの対象になるようなものでもなければ、その量に限りのあるものでもないからだ。思想、すなわちイデオロギーは感染症と同じように、人に多大な影響を与える。それに感染すれば、人は知的にも感情的にも、熱にうなされたようになるかもしれない。あるいは世界中に蔓延し、歴史を変えてしまうこともしばしばある。さて、このまま議論をしばらく感染症になぞらえて進めていくのが良いと思われるのは、いま世界でとりわけ重要とされる三先進国に、「緊縮財政熱」とでも称すべき新たな感染症が広がりつつあるからだ。過去にアフリカやラテン・アメリカ諸国を長期にわたって苦しめ、貧しい国々をさらなる困窮へと陥れたにもかかわらず、同じことがまたしても繰り返されようとしている。

 

現在、政治エリートは財政を緊縮削減し、福祉を切り捨てよと盛んに唱えるが、そのような策を推進すればヨーロッパやアメリカ、そして日本の人々の将来は危うく、みじめになりかねない。

ところで、ここで一つはっきりさせておくべき事実がある。それは政治および経済の諸問題に効くと政治家や学者たちが推奨して止まない処方箋ではあるが、過去の歴史においてその有効性が証明されたことは一度としてない、という点だ。現実はまったく逆であった。公共の利益に応えるための手段が枯渇すれば、社会は不安定になる。そしてそのような社会には、人々に悪しき未来像を吹き込み、ハーメルンの笛吹きさながらに、言葉巧みに、状況をさらに悪化させ、果てはかつてのワイマール共和国のように、壊滅的な事態へと追い込みかねない人物が登場するものだ。緊縮財政を推し進めれば失業率は急激に上昇する。そのような政策が長期的に行われれば、社会暴動と、それに対する弾圧を招くことになる。

経済の健全化をはかる処方策として提唱されてはいるが、その実態はイデオロギーによって培養されたウィルスに他ならない。ここで言うイデオロギーとは、不確かな状況に直面して持ち出される、呪術のようなものかもしれない。なぜならそれは明確な事実や、常識的、政治的な議論を根拠とするものではないからだ。イデオロギーは多くの諸国で、会話や議論を通じて、人々のなかに深く浸透していった。その背後には政治家、メディアと富裕な人々とのつながりがあり、そこから誤った知恵が生み出されていった。彼らはイデオロギーの恩恵を受ける立場にあるのだ。なぜ財政を削減せよと唱えても、反対に遭わずにすむのか? それは多くの富裕ではない人々、社会のなかでもっとも虐げられている人々を欺くことができるからだ。単純明快に、率直に唱えさえすれば、当人は自らの言動に対する後ろめたさを感じずに済む。しばらく道徳的な規律が弛んでいたともなれば、効果はてきめんだ。カルビン派のなかで成長した人間なら、すぐにこのことが理解できるはずだ。質素な生活はいいことなのだから、これは自分に罰に与えるまでもなく、罪を償う手っ取り早い方法、というわけだ。

ヨーロッパやアメリカ、日本で人々がこの策が正しいと信じるのは、多少の差はあれ自らの生活を見直すべきだと感じているからなのだろう。ただし財政緊縮というウィルスがなぜこうした国々に広まったか、その理由はまちまちであり、そこから生じる弊害も異なる。

いまや変異を遂げたこのウィルスが誕生したのはアメリカであるから、まずはそこから話を始めよう。その威力についてジェームズ・ガルブレイスは最近の著作のなかで次のように述べている。「いま我々が目にしているのは、いまだかつてないほど大がかりな集団的ヒステリーといううねりである。歴史上、もっとも強烈なプロパガンダ攻勢がもっとも成功をおさめた一例なのである」

彼が言及するのは、フランクリン・D・ルーズベルトのニューディール政策やリンドン・B・ジョンソンの「偉大な社会」計画の流れを汲む、公益を旨とする諸策をないがしろにするための財政削減にとどまらない。いわゆる「ティーパーティー」運動の成功、さらにはアメリカの中産階級の力を削ぐ金権政治など、一連の現象が含まれている。ちなみにアメリカの一般の人々は国家とは必要悪であるか、少なくとも忌むべきものであると教え込まれてきた。ところが真実からはほど遠い、誤った議論を盛んに喧伝するプロパガンダ攻勢によって、人々は自らが重んじてきたはずの個人の自由に、真っ向から立ちはだかるべく仕向けられてしまった。アメリカの富の四〇パーセントほどを所有する人口のわずか一パーセントの人々は、中産階級には努力が足りないと見ており、そのような人々を甘やかす諸策を継続することなど、全く関心がない。

個人の可能性を制限するのが国家である、とするアメリカ人の思考は、開拓時代にさかのぼる根の深いものである。当時、政府は人々から遠く離れた存在で、各地の共同体は秩序を自らの手で維持していた。国家と市民の関係をこのようにとらえるのは正しいとは言えないわけだが、この間違った思考を大衆に浸透させたのが、最近ではロナルド・レーガンだった。彼は、国家は問題を解決する存在ではなく問題そのものである、と述べたのであった。

現実には、国家を全ての市民を代表する正当な実体であると認めないからこそ、アメリカでは多くの政治問題が生じたのだった。つまりもしこのような誤った認識がなければ、緊縮財政をむやみやたらと推進するなどという現象も起こり得なかったということだ。
ではその国家はいまどのような状況になっているのだろうか? それについて考えることは、このウィルスによって壊滅的な打撃を受けかねない他の二つの事例について議論するのに役立つ。欧州連合(EU)に関して言えば、それは国家でもなければ、国家のように物事を行なう連邦組織でもない。EUの最大の欠陥は、経済統合によって生じた政治問題に対処可能な政治機構がないことだ。そして日本の問題とは、従来とは異なる事態が生じて、新しい政策が必要になっても、重要な政治決断を行い、それを実行する権力を備えた政治的な責任の所在、つまり国家の中枢が欠如していることである。これが欠落しているために、財政緊縮といった政治課題が持ち出されても、日本はそれを阻止できず、望ましい成果を上げることができない。
他方、緊縮財政というウィルスによって、アメリカの中産階級は急速に蝕まれる一方、民主主義に代わって、コーポラティズムなる政治システムが強化されつつある。同じウィルスはヨーロッパではユーロを脅かし、その結束を阻もうとしている。さらにはヨーロッパからは消え去ったはずの、ナショナリズム的な意見も生じつつある。無責任なEU加盟国の尻拭いはごめんだというわけだが、そのような考え方は間違っている。日本ではウィルスはその破壊力を全面的に発揮してはいないが、財務省や菅直人首相の言動を見れば、彼らがすでにそれに感染していることはすぐに分かる。つまり、第二次世界大戦後最悪の危機に見舞われた日本経済を、再び活性化させる可能性は失われてしまう危険性があるということだ。
ヨーロッパの国々は、「第三の道」をスローガンに推し進められる新自由主義に、程度の差こそあれ影響されている。この「第三の道」なる構想は、アメリカと同様、国家と市民の社会契約、すなわち福祉政策を変えてしまった。これは労働組合等が数十年にわたる闘争の末に獲得し、ヨーロッパの人々が二〇世紀の後半を通じて、当然のごとく受け止めてきたものである。もちろんそれが望ましい政治のあり方でもあった。いまEUに加盟する諸政府にとってこれは、拘束力を持つ法律や規制を発令するブリュッセルにある本部に寄せられる市民からの怒りの声を、やりすごす格好の言い訳なのである。EU参加国を個別に見るならば、やはりすでに相当期間にわたって緊縮財政ウィルスの影響を受けていた。その結果、ほとんどの国は一様に財政を引き締め、福祉プログラムを切り捨てた。同時に、公共サービスの多くが民営化されたために、健康保険や教育、公共交通機関などの質的低下が目立つにいたった国もある。

このウィルスの弊害は、ヨーロッパ経済史上最悪とも言える規模で広まる強欲な資本主義によって、いっそう深刻化している。ギリシャの首都アテネでは、国会議事堂前で抗議する市民に対して、警察が催涙ガスを発射した。二〇〇八年の金融危機前に、ギリシャ政府に低利率の融資をもちかけ、結果として巨額の財政赤字をもたらしておきながら、その張本人である銀行を救済するために、同国経済の未来がつぶされようとしていることに、市民たちは怒りの声を上げたのだった。事態はいわゆるクレジット・デフォルト・スワップ、つまりギリシャの債務不履行に賭ける投機家たちの動きによって、さらに複雑なものとなった。そしてここに欧州中央銀行(ECB)と国際通貨基金(IMF)が登場する。ギリシャに融資することで、同国のデフォルトか、あるいは必要とされていながらいまだ実現にいたらぬヨーロッパの新しい金融システムの創設か、という究極の選択を先延ばししようとしているのだ。しかもそれは民営化と緊縮財政という、すでに世界には馴染み深い新自由主義的処方箋を、ギリシャが受け入れるのと引き換えに与えられることになる。しかしギリシャにおける緊縮財政によって、同国の政治システムは完全な骨抜き状態になりつつある。そこには国家資産を売却するという計画まである。冷酷な投機筋を魅了して止まない話ではないか。
財政を削減し、引き締めればギリシャの問題が解決でき、また同国に経済的な繁栄をもたらすことができるなどという主張は、信じがたいほどに愚かしい。自国経済が縮小すれば、借金は返済できない。このことはアイルランド、スペインとポルトガルについても言える。押し付けられるままに処方箋を受け入れても、金融危機と、それに続く不況に苦しむこうした国々の問題は悪化するだけだ。
緊縮財政というフォーミュラが効かないというばかりでなく、公的サービスを民営化すれば、その質は低下し、しかも運営コストは上昇する。そればかりではない。忘れてはならない重大な事実がもう一つある。それなのにそれを指摘する声は全く聞かれない。つまりはこのウィルスに感染しても、抗体が作り出されることはないという点だ。ここでかつて「自由世界」というより広い視点に立って、こうした国々になにが起きたかを考えてみよう。ヨーロッパ諸国においては経済の金融化は、アメリカに大きくひけをとることはなかった。しかもこの分野はさほど厳しい規制を課されないまま、急激に拡大したので、盛んな取り引きによって、大西洋をはさんでの両大陸はきわめて複雑に絡み合っていった。その結果、あらゆる国民が、投資銀行家たちの投機という陰謀に巻き込まれていった。昨今の事例から、政府や中央銀行は、国民とその国の経済を守るのではなく、銀行を救済するために存在していることが明らかになった。いまや主導権を握るのは銀行なのである。この三、四〇年を通じて、金融業者の政治権力は前代未聞の高みに達し、その力がこの惑星上の大半に及び、重要な政治プレーヤーとしての労働組合が消えてしまったために、労働者も政治力を失った。社会主義や社会民主主義を礎とする政党が、有権者たちの期待を裏切るようになってすでに久しい。アメリカでもヨーロッパ諸国でも、政治エリートたちが肩入れするのは右派的思想である。そのなかでも公職にある人々は、銀行家や企業家たちの機嫌を損ねまいとしながらも、きわめて実入りの良い地位を得ることを期待している。
実態を知るアメリカ人たちの理性ある声は、ウォール街やシンクタンク、誤った考えに毒されたリベラル派、政府の主張をそのまま繰り返すだけの主流派メディア、投資銀行やアナリストたちによる、強力なプロパガンダ攻勢の騒音のなかにかき消されてしまう。ウォール街の権力者たちは緊縮財政を命じ、こうした小数権力者の財政的な後ろ盾を与えられているティーパーティーのさまざまな団体も、当然のことながらそれに同調する。一五年ほど前、丁度、企業界にリストラの嵐が吹き荒れた時と同じように、いま緊縮財政こそ「勇気ある」行為だと声高に叫ぶのは、財政削減によって被害を受ける心配がない人々である。

いまもしアメリカで、社会契約はどうなってしまったのかなどという議論をしようものなら、その人物はたちまち階級闘争を助長しようとしていると非難されるだろう。ちなみにアメリカの一般の人々の意識のなかでは、階級闘争というのはなにがなんでも避けるべき恐ろしいものとされている。こうした議論が行なわれるような「公的領域」は、いまやEU内にも存在しなくなってしまった。ちなみに「公的領域」とは市民に対して、いまなにが行われているかを告げ、それに対する彼らの反応を伝えるための機構である。抗議デモの参加者について、安定が脅かされているなど、現状について報道されはしても、ヨーロッパのジャーナリズムに、ウィルスの猛威を抑制する働きを期待することはできない。ヨーロッパの多くの人々が情報源とするのはアメリカのインターナショナル・ヘラルド・トリビューンやウォール・ストリート・ジャーナル、そしてウォール街とアメリカ政府の意見が反映されたイギリスのフィナンシャル・タイムズである。このフィナンシャル・タイムズにはすぐれた記事も見受けられるが、EUに対する見解は変化したらしい。以前は慎重ながら、EUの試みを評価していたのが、いまやきわめて否定的であり、記事や論説を読んでいるとまるでユーロの崩壊を期待しているのではないかと思えるほどだ。だがユーロを導入した当初から、こうしたことは懸念されていた。
今回の危機で浮き彫りになったもう一つの点は、人々にはなにもわかっていないということだ。ほとんどの人々は金融報道によって圧倒されてしまい、それが本当にはなにを意味しているかが理解できないのだ。経済的な繁栄という未来像が崩壊したのだから、財政緊縮の痛みを受け入れよという呼びかけに、状況がそれほど悲惨ではないEU加盟国であれば、もっともらしい主張だと感じ、それを受け入れようという気になるだろう。それは人々の罪の意識、償うべきだという感情に働きかける。我々はまたしても「罪人」を問題にしているのである。ヨーロッパの南部に位置する諸国、そして右端の国を見よ。彼らは分不相応な生活をしていたではないか。勤勉さが足りなかったではないか。そして無責任にも金づかいの荒い政治家を当選させてしまったではないか。EU内の不和、これこそウィルスがどんなに有害かを物語る最初の兆候なのである。
多くのギリシャの人々が街へ繰り出し、熱烈に、本気で異議を唱えた状況からして、この夏、政治的な大変動が起きる可能性は大いにある。実際には銀行が招いた事態なのであって、アイルランドやスペイン、ポルトガルの人々が自分たちに責任があると感じているわけではない。それなのにブリュッセルのEU本部の役人たちの説明を聞いていると、ドイツやオランダ、フィンランドなどの高潔な国々と、他方、高賃金で、退職年齢があまりに若く、競争力を増すための努力を全くしなかった国々という具合に、あたかもユーロ圏が分断されたかのような印象を受ける。つまり高潔な国々の納税者たちは浪費家たちのつけを負担すべきではないというわけだ。
問題を抱えるEU加盟国にまつわる否定的な側面というのは、もしかすると本当なのかもしれない。しかし、この危機が一体なにを原因として生じたのかが少しも明らかにされない以上、こうした見方が適切だとは言いがたい。
このウィルスの温床となったアメリカの政治的な状況を、ヨーロッパの人々がつぶさに理解しているわけではない。問題を抱えたEU加盟国の信用度が、いまや新聞報道をはじめ、金融市場で盛んに取り沙汰されているわけだが、それを決定した格付け機関が、途方もない詐欺行為を働いていた事実に、ほとんどの人は気づかない。これは犯罪であり、それが投機家たちによって金融危機、そして現在の不況を招いた主な要因だったのだ。こうした格付け機関に対する信頼は失われて当然であったし、そうなる可能性はあった。少なくともヨーロッパはそう訴えるべきだった。

IMFやECBなど、命令を発する機関は、あたかも科学に類似した知識に基づいて運営されているかのように見られている。ところがこの点に関して、一つ重要な事実が見過ごされている。つまり、こうした機関の専門家たちは、経済や政治という現実の経験に裏打ちされることなく作られた理論上の経済モデルの恩恵に浴しているにすぎないということだ。国によって異なる機構構造などに、彼らは全く関心がない。なぜならそれを考慮したのではモデルが台無しになってしまうからだ。しかもかつて自分たちが提唱した処方箋によって、事態がいっそう悪化した際、こうしたエコノミストたちはなにをしたか? 悲惨な結果を生んだと同じ薬を止める代わりに、処方量をさらに増やしたのであった。過去のIMFに関する記録を見れば、そのような事例が無数にあることがわかる。それなのに大西洋の両側に位置する国々は、財政引き締めという政策が、アフリカやラテン・アメリカ諸国の経済発展という観点からして、いかに逆効果だったかという事実を知らないらしい。IMFのエコノミストたちが処方した治療法によって症状が悪化した事実を検証してみれば、誰しも彼らがやぶ医者だと結論せざるを得ない。もっと皮肉な言い方をするなら、彼らは本来治療すべき患者の健康ではなく、別の目的に寄与していたのであった。
つまりIMFのエコノミストたちの机の引き出しに入っている策というのは、多少の調整を加えるだけでどんな国にも適用できる出来合いの製品なのである。しかもそこで想定されているのは、貧困国と富裕国の新植民地主義的な関係である。表現を変えるならば、下請け業者的な位置づけと言えるかもしれない。つまり問題を抱えたEU参加国が、緊縮財政策を受け入れれば、彼らは今後、恒久的に従属的地位に置かれることになるということだ。
ECBを運営する役人たちもまた、同じように新自由主義に染まっており、銀行が非難の対象にならないと見るや、ここぞとばかりに道徳を楯に厳しい姿勢を示してみせる。こうした銀行がギャンブルまがいの投機を行なっていたからこそ、金融危機を招き、そのために緊縮財政が推進されるという極めて弊害の大きな事態が引き起こされたわけだが、彼らのなかにはこうした銀行の出身者もいる。
情報や知識が手に入らないわけではないが、それは妄想じみたイデオロギーからは注意深く区別される。歴史の教訓が活かされることはない。緊縮財政を継続的に実施して、経済が復興を遂げた事例は過去に一度もない。たとえばピノチェト時代のチリは惨憺たる事態に陥った(現実はプロパガンダの主張とは逆だった)し、アルゼンチンの人々が出て行ってくれと言って、IMFを追い出すまで、同国の壊滅的な経済状況が復活するきざしは見えなかった。共産主義システムを放棄したロシアの手痛い教訓を、世界は忘れたのだろうか。アメリカの市場経済学者による新自由主義的な緊縮策を実施したために、ロシアのGDPはほぼ半減し、平均寿命は短くなり、自殺率は急上昇したではないか。新自由主義が登場するずっと以前にも、経済が枯渇寸前へと追い詰められたドイツで、二〇世紀最悪の似非ポピュリストが登場したというおぞましい事例がある。
専門家の政治知識など、今日の状況のなかではなんの意味もない。時として最善策はなにかをめぐって、彼らが激しく言い争ったとしても、それは所詮、イデオロギーが定めた枠組みを踏み越えることはない。しかも参加諸国を保護するため、ユーロに信頼のおける政治的基盤を与え、独立した中央機関によって指導調整が行なわれるような新たな金融システムを、ヨーロッパは必要としているのに、彼らはその実現のための革新的な政策を排除してしまう。
ところで、日本は一見、このイデオロギーに扇動されたウィルスによって脅かされているようには思われない。日本の経済システムが、アメリカやヨーロッパ諸国と同じ方法で運営されてはいるわけではない。日本の資本主義は、ごく部分的な共通点を除いては欧米のそれとは異なっている。第二次世界大戦後、奇跡と称賛された急速な経済成長を実現するため、日本の権力者たちが設計したのは統制的なシステムだった。そのなかで市場はせいぜい道具立てのひとつにすぎなかった。ほんのしばらく市場の原理にまかせ、状況を修正することはあっても、市場にまかせておけないと見ればいつでも介入すべきであることを、彼らは理解していた。それによって良好な成果を上げた日本は、大西洋の両側に壊滅的な影響を与えたイデオロギーの影響を受けずに済んだ。しかし経済的な成功を果たすと、政治システムに欠陥があるために、対処できない問題も浮上した。官僚と行政の意思決定に関して、日本はこれまで比較的優秀であったが、政治の方向性を決めるための政治責任の所在という中枢が欠落しているこの国は、進むべき方向から大幅に外れてしまった。しかもそれが踏襲され続けているのである。
日本の経済界や政界のほぼ全ての関係者が、このような事態を変えなければならないと異口同音に唱える。他方、アメリカ政府はこれまで何度も日本の国内市場に参入しようと苦心してきた。貿易摩擦を通じて、自国にとっても有益なのだから、日本は改革すべきだという海外の意見に、役人たちも頭を悩ませてきた。問題は日本には新しい政治的なアプローチが必要だという点では一致していても、内容は異なる二つの意見が混同されてしまっていることである。なぜならそのために日本の財務官僚たちの間に、新自由主義的な改革を受け入れようとする余地が生じてしまったからだ。現在、先行きの見えない政治状況のなかで、そして東日本大震災という悲劇に見舞われて自信を喪失したことで、日本は緊縮財政というこのウィルスに無防備になっている。

「責任ある財政」という見せかけの姿で、国民の罪悪感につけ入ろうとするこのウィルスの攻撃ほど、いまの日本にとって忌まわしいものはない。なぜなら日本の財政赤字はたしかに巨額であるかもしれないが、赤字はほぼ全て日本国内にとどめられているからである。しかもその国内システムにおいては、民間部門と政府部門は区別するのが無意味なほどに密接に結びついているのである。
この三月の大地震と津波によって、東北地方の広範囲にわたって住宅や産業構造が壊滅的な被害を被った日本で、大規模な復興プロジェクトが必要であることは明らかだ。それは丁度、敗戦後の復興期と同じく、日本の経済再活性を牽引していくことになるだろう。それはこの数十年、日本が待ち望んでいたものでもある。日本を復興させるため、いま日本政府は財政削減強硬論者たちに、この国の歴史を思い出させることで、ウィルスに対する抵抗力を高めるべきである。一方では、いまやグローバル規模で広がる強欲な資本主義になじむような国にしてやると日本に持ちかける海外の論者に対し、「要らぬおせっかいをするな」と告げるべきなのである。(訳・井上実)